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洋練兵場口むかいなだとびぐちひがしれんぺいじょう 今年で戦後80年を迎えます。人類史上初の原子爆弾が広島に投下され、多くの人々が今なお、深い悲しみと苦しみにさいなまれています。現在も、世界各地でテロや紛争が起こり、核兵器開発など平和を脅かす行為が後を絶ちません。 戦争の悲劇を再び繰り返さず、戦争の記憶を風化させないために、次の世代に語り継いでいくことが大切です。れた、上田桂子さん(旧姓:伊勢村 現在96歳 相渡在住)に、当時の体験を語っていただきました。私は広島女学院の4年生で16歳でした。8月5日の夜は、なぜか一晩中寝れませんでした。8月6日の朝8時ごろ、学徒動員に従事するため、家をでました。実家は、繁華街の下柳町の美容院で母親の時子が経営していました。家を出る時、すでにお客さんが来られ母はパーマをかけていました。 広島駅に着いた頃、「ピカッ」と閃光が走り、「ガーン」と大きな音がして、真っ暗になりました。目をようやく開けると、爆風に吹き飛ばされ、建物の下敷きになっていました。何とか這い出して周りをみることが出来ました。一緒にいた友達も無事なようでした。 当時命令は絶対で、必ず学徒動員に行かなければいけないと思っていました。電車も止まっており、歩いて向の東洋工業に何とか着きました。着いた途端に、先生から「広島がおおごとになっているからすぐに帰りなさい」と言われ、来た道を歩いて戻りました。帰っても、そこら中で家が燃え、炎が立ち上り、広島市内には入れない状態でした。どうしたものかと考えたところ、古市に祖母が疎開していましたので、そこまで歩いていきました。古市の疎開先に避難してきたものは私一人だけでした。 翌日、疎開先の叔母と母親をさがしに自宅に戻りましたが、焼け野原でした。自宅跡には、昨日の朝にみたパーマをかけていた女性の焼けこげた姿がありました。家族4人の写真右から母 時子さん、桂子さん(本人)、父、兄2 神石高原 2025.8 母をさがしていると誰かが「東てくれたので、そこに向かうと、死体の山でした。そこでは、鳶で死体の首を打ち抜き、引っ張り集めて火をつけて焼いていました。人ではなく「モノ」を扱うような光景でした。死体を焼く匂いは魚を焼くような匂いがしました。人が焼かれ縮んでいく様子を初めて見ました。今でも忘れることはできません。生き地獄でした。 叔母と2人で市内中を探しました。叔母は顔を確認するため、横たわる死体をひっくり返していましたが、16歳の私は怖くてどうすることもできませんでした。それを見た叔母が「桂子さんしっかりして。お母さんを探すんよ!」と励ましてくれました。叔母も大手町に住んでいた両親を亡くしているにもかかわらず、一緒に探してくれました。当分の間、病院などあちこちを探し回りましたが、結局見つけることはできませんでした。すでに、焼かれていたのかもしれないと、あきらめました。」にいると言っ特集 戦争体験を未来につなぐ 広島市で生まれ育ち、広島女学院高等女学校在学中に被爆さ 8月6日、最後に見た母の姿 今でも、あの日の母の姿を私は忘れることができません。当時戦後80年を迎えて ~平和への希望~

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